ホンダがF1撤退へ 金融危機、スポーツに波及

情けない。本当に情けない。しかし、落ち着いてよくよく考えてみれば、必然だったのかも知れない。

2005年の日記にこんなことを書いていた。

2005/03/06 (Sun) 2005年 開幕戦オーストラリアGPの感想

■ 問題は、B・A・R ホンダ、だ。

昨年は上記の古参チームが不振を極めていたとはいえ、上位で争える戦闘力を持ち始めていた。今年はそれに磨きをかけ、他チームの不振などの外的な要素を排して実力のみでレースを戦うことができるか否か。いや必ずそうなって、琢磨がフロントローを走る姿を毎回見ることができるはずだ、と、開幕が待ち遠しかったのだが、戦闘力は中位の上。これはだれの目にも明らかだ。期待外れもはなはだしい。これでは、フェラーリどころか、ポディウムに登ることさえおぼつかない。揚げ句の果てに、完走扱いのリタイアでエンジンを交換しよう、という始末。

今回のようなレギュレーションに変更されたからには、チャンピオンを狙うチームにとってレースディスタンスが 2倍になる、のは不可避の問題だ。むしろ、その技術的な困難な課題に立ち向かっていく姿勢がなくてはならないはずだが、今回のチームの決定にはその意気込みを感じることができないし、B・ A・R ホンダ自体が他との力の差を認めたのかも知れない。

いずれにせよ、相手のエンジンが壊れることに期待するような戦術を使うチームに、琢磨にはいつまでも残留していて欲しくない。願わくは周囲の評価が変わらない内に、あるいはこの走らない車で活躍してさらに評価を上げ、勝てるヨーロッパの古参チームに移籍できることを願って止まない。

思えば、「迷走」はあの時から始まっていた。油断。不振。琢磨の放出。そして、間に合わせのスーパーアグリ

「何としても」「何が何でも」「かじりついても」

トヨタのような気迫を、いつしか本当に感じられなくなってしまった。

F1 は「ビジネス」かも知れない。しかし、ただの「ビジネス」でもない。挑戦に賭ける想い。その挑戦に想いを馳せるファン。その両者の想いが交錯するところに F1 の真の価値が存在する、と私は思っている。ホンダはそのどこにもいなかった。それだけのことだ。

以前、ホンダのディーラーで「部品精度の向上の取り組み」についての秘話が書かれた冊子を読んで、とても感銘した。部品が「どうのこうの」というよりも、仕事に取り組む日常の姿勢からコツコツと精度を上げて行ったというくだりに、自分も「かく在りたい」と憧れさえ覚えたものだ。

しかし、そんな冊子を置いていたディーラー自体も「品質」が年々低下している。もうかれこれ 10年以上ホンダ車に乗っているので、よく分かる。ちょっとした不具合を診てもらっても、環境に配慮した調達部品のためとか、その車特有の症状だから仕方ありませんとか、言い訳ばかり。以前のように「頑張ってみます」「努力してみます」というホンダらしい一言は絶対に耳にすることは無くなった。

F1 は遠い世界のことだろうか。私はそうは思っていない。やっぱり同じ組織は組織。不思議なもので、社風とか雰囲気とか言うモノは、またたく間に構成員の中で共有されてしまうものだ。昨今は「金融危機による」という頭書きを常に付けて、ある種の手頃な言い訳のように使われているが、こと今回のホンダについては、本当にそうだろうか? 次に乗り換える時は確実にホンダではない、と心に決めている私にとっては、とてもそんな風に思うことはできない。

また、仮に金融危機が原因であったとしても、

「もう二度と無様な姿を晒しに F1 に戻ってくるな」

ということだ。それから、私はアイルトン・セナをあまり好きではなかったが、

「セナの墓前で額を擦り付けるほど頭を下げてこい」

ということだ。